サクサクサク。
ちまたでポストモダン派と呼ばれる人たちって、本人たちは実際にそう呼ばれるのをすごく嫌がったみたいな話があるそうですけど、このエピソードそのものがポストモダンぽいなーって思いますよね。
あとそれってお医者さんってゆったら医者ってゆうな医師って言え、みたいにムッとされるようなのと似てる気もしましたけど、違いますかそうですか。
サクサク。
ならばポストモダンなお菓子ってなんだろうなとか思うんですけど、そうなるとやっぱりお菓子とはいえ脱構築的な何かをやっていかないといけないと思うんですよね。
「そもそもお菓子とは何なのか」が常に問われ続けられる存在でないと真にポストモダンなお菓子とはいえない、ということ自体をもう一度疑ってみようみたいな。
サクサクサク。
それで、そういう意味ではフルタ製菓のチョコエッグはなかなかいいセンいってるとは思うんですよ。
お菓子というのはその筺体のほとんどが可食部分でなければいけない、みたいな思い込みがあったとして、まあチョコエッグはさすがに中のカプセルなりフィギュアなりは食べることができませんし、食べるどころか集めるとか遊ぶとか飾るとか、そういう複数の違った目的が1つのお菓子に内包されているわけで、ちゃんと「お菓子とはなんぞや」ってことに対する自省が行われているとは思うんですね。
それでですよ。
サクサクサクサク。
ポストモダンてのはそれ自体をまた自省していくことを決してやめないわけで、さてじゃあ本当にチョコエッグはお菓子としてポストモダンなのかと考えてみると、どうもそうとも言い切れない。
なぜなら「あーチョコエッグって中にフィギュアが入ってるアレ」でしょ、と言ってくれる人がもうたくさんいる。
その時点でもうチョコエッグは「そういうもの」という立ち位置が確立されちゃってるのでもはや「チョコエッグがそうではなかった可能性」を抑圧しているともいえる。
そうだ。
結局、お菓子がポストモダンであり続けるためには、いわゆるブランディングとは違う方向に進み続ける必要があるわけで。
常に、お菓子自身が、自分はこういうお菓子なのだということと、そしてそれをまた否定して、変わり続けていくのだとうことを語り続けていくわけで。
これをもって、真にナラティブなお菓子というものがこの世に生まれるわけですが、まあそんなことを考えながらお菓子を食べるというのも変な話ですけどよく考えたらお菓子を食べてる時くらいしか変なことは考えられないので、みなさんお菓子を食べましょう、ということでした。
おやつ中の現場からは、以上です。サクサクサクサクサクサク